九条下町ワンダーランド。
2010年7月29日 番外編 九条下町風景
これまで2回にわたってご紹介しました「九条下町味めぐり」の、
味と関係ない部分(?)を、今回はご紹介いたします。
味と関係ない部分(?)を、今回はご紹介いたします。
基本的に「九条の歴史」という視点がありますので、
それこそ川の堆積土で九条の土地ができた、的なレベルの昔の話が、途中に説明として入ってきます。
それこそ川の堆積土で九条の土地ができた、的なレベルの昔の話が、途中に説明として入ってきます。
木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、江戸時代初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。その川沿いは大坂に入港する大型船の船着場となった。
明治時代は九条の北の川口が、外国人居留地の設置(1868年~99年)により大阪の文明開化の象徴となった。その木津川対岸の江之子島には大阪府庁・大阪市役所が建設されるなど、大正時代まで大阪の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく神戸に移っていったが、代わって中国商人が入り、日中戦争の激化までは中華街が存在した。一方、川口の南の松島には明治以降新町遊郭から遊郭が移転し松島遊廓となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の心斎橋」と呼ばれたこともあった。
出典:ウィキペディア(詳しくはこちら。)
明治時代は九条の北の川口が、外国人居留地の設置(1868年~99年)により大阪の文明開化の象徴となった。その木津川対岸の江之子島には大阪府庁・大阪市役所が建設されるなど、大正時代まで大阪の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく神戸に移っていったが、代わって中国商人が入り、日中戦争の激化までは中華街が存在した。一方、川口の南の松島には明治以降新町遊郭から遊郭が移転し松島遊廓となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の心斎橋」と呼ばれたこともあった。
出典:ウィキペディア(詳しくはこちら。)
もともとは川だったという、くねくねした道を通って…
商店街から少し離れた古民家も見学させていただけます。
左:「うだつ」があがっています。うらやましいですねぇ(笑)。
右:中が見学できる民家は、有効な再利用の方法を一般公募するそうです。
右:中が見学できる民家は、有効な再利用の方法を一般公募するそうです。
右の扉の“元”鉄工所に入ると、右のようなイベントスペース、「ミューラシア」さん。
大通りに出ると…
「八紘一宇」の文字のある戦時中の記念碑と並んで、ある碑が立っています。
右の写真のように裏へ回ってみると、「昭和九年九月二十一日 関西風水害浸水〃位標」とあります。
右の写真のように裏へ回ってみると、「昭和九年九月二十一日 関西風水害浸水〃位標」とあります。
いわゆる「室戸台風」の、水害時の水位を示しています。
上の方にある線は、「最高水位線」。
1mくらいの高さがあるので、このあたりはかなりエライことになったはずです。
<おまけ>
歩いてる途中で見つけた、おそらく後付けの“渡り廊下”です。
歩いてる途中で見つけた、おそらく後付けの“渡り廊下”です。
鉄工所さんが自分で作られたんでしょうね。結構コワそうです。ジブリの世界(笑)。
いや~、九条、なかなかのワンダーランドです。