原付北海道1周4,000kmリターンズ

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聖地巡礼。

第14戦、イタリアグランプリ。
 
フェラーリの聖地、モンツァでのグランプリは、
熱狂的ファン“ティフォシ”達の服装や応援のグッズなどで、私には「赤」のイメージがあります。
 
そんな中、スピード勝負に基本的に向いていないザウバーの「白い」マシンで、
たぶん全戦で一番合わない超高速コースで、期待の可夢偉選手は予選13位につけたものの、
マシントラブル(ギアボックスやったらしいですが)により、
ピットスタート⇒1周リタイヤという残念な結果に終わってしまいました。
 
そして今年も優勝はフェラーリフェルナンド・アロンソでした。
可夢偉選手には次戦からのアジアシリーズ、特に、近づいてきた鈴鹿での活躍に期待したいですね。

 
さて、今回は前回の“27番”に続いて、“28番”のドライバーのお話です。

 
ワタクシ的には「28番」と言えばこの人、ゲルハルト・ベルガーなんです。
イメージ 1
1986年、新興チームのベネトンで鮮烈な初優勝を飾って以来、実力派ドライバーという評価は、揺らいだことがありませんでした。
 
マクラーレンでセナとコンビを組んで走っていた印象が強い人も多いと思いますが、
1987~89年、1993~95年の2期にわたってフェラーリをドライブした6年間が、やはり私には印象として残っています。
 
マクラーレンに移籍し、セナのチームメイトになった1990年にも、「28」をつけていましたので、「28」はやはりベルガーの番号やな、と。

マクラーレンでももちろん活躍はしましたが、それでもワタクシ的には、「フェラーリの27」ヴィルヌーヴと同じように、「フェラーリの28」というイメージが強いんですね。
 
  イメージ 2
 
1988年シーズン。
 
この年、自身初のチャンピオンになったアイルトン・セナと、
すでに2度のワールドチャンピオンを獲得していたアラン・プロストがタッグを組んだマクラーレンは、
1984年シーズンに、プロストニキ・ラウダのコンビで記録した16戦12勝をさらにしのぐ、
16戦15勝(何と勝率.9375!)という、とんでもない記録を打ち立てました。
 
セナが8勝、プロストが7勝をあげ、2人がグランプリの覇権をほしいままにしたこの年。
マクラーレン・ホンダ以外の唯一の勝利が、実はフェラーリゲルハルト・ベルガーによるものだったのです。
 
 
1988年9月11日。
 
この年の第12戦イタリアGP。
上で「今年もアロンソが勝った」と書きましたが、
モンツァではフェラーリが、地元の大声援をバックに活躍することが多いのです。
 
ただ、この年は、ここまでの11戦で圧倒的優位を保っていたマクラーレンが、
当然のごとく予選の1列目を確保。
既にこの年10回目となるポール・ポジション(最終的には16戦で13回=当時の新記録)をセナが獲得し、
プロストも負けじと予選2位に入りました。
 
レースもマクラーレンの2台がリードする展開だったのですが、
35周目にプロストが、この年のマクラーレン・ホンダ、唯一のエンジントラブルでリタイア。
首位をキープしていたセナも終盤は燃費に苦しみ、
迫り来るフェラーリの2台に差を詰められる展開になっていました。
 
当時は全盛であった自動車メーカー系のターボエンジンと、安い自然吸気エンジンの格差を埋めるために、
吸気圧の規制や、燃料積載量の規制など、ターボエンジン車にはさまざまな規制がかかっていたのです。
 
それでもセナのテクニックを持ってすれば、フェラーリの2台を封じきるのは、楽な仕事だと思われていました。

 
ところが。

 
運命のラスト2周。

ペースを思うように上げられないセナは、フェラーリの影を気にしつつも、
それでもウイリアムズのジャン・ルイ・シュレッサーに追いついてしまいます。
イリアムズがもし前年同様、この年もホンダ・エンジンを供給されていれば。
本来ウイリアムズに乗っていたはずのナイジェル・マンセルが、病気で休んでいなければ。
 
おそらくマクラーレン前人未到空前絶後の16戦全勝を達成していたでしょう。
 
しかし、シュレッサーはセナのプレッシャーに耐え切れず、ラインをはずしてコースアウト寸前、
立て直そうとしたところで、セナと接触してしまいます。
 
セナのマクラーレンは無常にも縁石に乗り上げ、ホイールは悲しげに空回りを続けるのみでした。
そのまま車を降りたセナはリタイア。

 
代わってトップに立ったのは、フェラーリゲルハルト・ベルガー、その人だったのです。
チームメイトのミケーレ・アルボレートを従え、前年度最終戦以来の1-2フィニッシュを達成。
 
マクラーレンに煮え湯を飲まされ続けたティフォシの喜びが爆発したのも、ムリはありません。
しかも聖地モンツァ。熱狂するティフォシの映像を、今も覚えているくらいです。

 
そしてその熱狂には、もう一つの理由がありました。

 
実はこの前月に、F1GP創設以来フェラーリを率いてレースに挑んできた、
偉大なるコマンダトーレ(“勲三等”という意味だそうです)、エンツォ・フェラーリが90歳で死去していたのです。

 
エンツォが起こした最後の奇跡だ! と誰もが思ったに違いありません。

 
普段はとんでもないオフザケ野郎なんですが、インタビューで
 
「この勝利をエンツォ・フェラーリに捧げます。」
 
と言ったベルガーのカッコ良かったこと。

 
今でも私、ジル・ヴィルヌーヴの次に大好きなドライバーです。
 
 
 ATS(1984)~アロウズ(1985)~ベネトン(1986)~フェラーリ(1987~89)~マクラーレン(1990~92)
 ~フェラーリ(1993~95)~ベネトン(1996~97)
 210戦10勝 PP12回 FL21回 386ポイント